スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

歳末の市場 

山手市場にあった魚屋さん。
お正月はブリを一尾丸ごと買って、刺身、吸い物、焼き物、煮付けに使っていることが普通でした。


1974_12_07.jpg

やっと、食事。高島の市場は野母から来る野菜の行商のこともあり、午前中が忙しい。
197412_10.jpg

歳末は注文、配達、売り上げの記帳と休む間もなく。
197412_12.jpg

1974年(昭和49年)12月末撮影。
スポンサーサイト

原油高 

今朝の新聞に、原油価格の高騰で長崎ー高島間の船賃が値上げされる様な事が書いてありました。船以外に交通手段がないので、島民の生活が大変になります。
合併特例債などは島民の生活の為に使って欲しいものです。

ガスの浜 釣り人 



寒い中、釣りをする人たち。
現在でも先の旧発電所裏のあたりは釣りのポイントになっています。

ガスの浜 



ガスの浜から蛎瀬方面を見る。
廃車が捨てられていたり、以前より荒んでいるように見えました。ボタで浜が覆われてはいましたが、ゴミ捨て場ではなかった。

ボタ山 



西浜グラウンドから見たボタ山

西浜アパート 



西浜5号アパートから6号を見ています。古い木造の建物も見えます。

帰郷 



長崎からの船で高島が大きく見えてくると、帰って来たと、感じました。

アパートの台所 



二子の七階建てのアパートの台所。現在も建物はあります。建設は1970年過ぎだと思います。設備は廉価なステンレスキッチンを中心にコンパクトにまとめられて、当時の高島の平均的な家事用品だと思います。
初期のアパート(蛎瀬地区)はコンクリート製の流し、水洗トイレも古いタイプの物でした。

高島神社 

よく遊んだ権現山下の神社。初詣も30年前に行ったきりです。
051210_12.jpg

立て直された現在の神社
178_7810.jpg

光町 



二子アパートから光町の社宅を見ています。
下はテニスコート。

子供たち 

元気に遊んでいた子供たち。


06_2.jpg

日吉岡ポンプ場 

旧小学校の裏から飛島を見た所。左手にポンプ小屋が見えています。


現在の様子。海水浴場が作られ、様変わりしています。
133-3393_IMG.jpg

島の宿「五平太」 

長崎市議会で予算がついて、補修が出来るようになりました。来年7月再開の予定。将来的には立て替えする様なことが書いてありました。

あさしお丸 

帰省すると、高島にもカーフェリーが来るようになった、と聞いた。乗船することはなかったが、高島行きの船から、すれ違った船を撮影したもの。


船名も船も見覚えがなかったが、拡大してみると「あさしお丸」「長崎ー高島」とプレートが付いていた。
11.jpg

高島港に入港している時。
051215_28.jpg

野母商船の社歴を見ると、
「昭和48年5月 長崎~高島間に自動車航送定期航路を開設(廃止)」
とあるので、短期間就航していたようだ。
後部にターンテーブルのある船は覚えているが、この船の記憶は無い。

石炭積み出し港の付近 



これは1974年2月撮影。
051203_04.jpg

下の写真の右側に当たります。明治時代、北渓井坑から石炭を積み出した港付近。
船溜まりの左側を泳いでいる時、潜ってみると石垣の名残りが砂の上に残っていました。古い船着き場だったのかも知れません。

小島漁港 



多分、漁業関係者の皆さんじゃないでしょうか。何かの打ち合わせをしているようでした。

テレビが来た日 

幼稚園から帰ると、家族が揃っていた。これからテレビを買いに行くと言うことで、私の帰りを待っていたようだった。父は仕事着のまま駆け付けていて、その当時テレビを買うということが家庭の一大行事の証であろう。今なら、クルマを購入することに匹敵するのではなかったろうか。

現在の行政センターの正面の海側に商店が軒を連ねていて、たしか「村田電気」店で購入した。画面は16インチくらいの昔風の丸いブラウン管。もちろん、緞帳のテレビカバー付きである。4本足の物を選び、母が「これで良いかな」と決定していた。
近所にはテレビの無い家庭もあり、6時過ぎから8時くらいまでは毎日のように誰かしかが見に来ていた。それから、一年もしない内に伝染病のように普及して行った。

このテレビ、二度程修理したが、丈夫で中学3年生まで使っていた。まだ映るからと、カラーテレビに買い替えるのは遅かった。
1960年(昭和35年)のことです。

ガスの浜から端島を望む 



この位置から見る端島が一番好きです。見なれていることもありますが、威風堂々としていて美しい重量感を感じます。
前月に閉山して、島民の方は残務整理、転勤、引っ越しと慌ただしい毎日だったことでしょう。

蛎瀬街道 



日傘を差して歩く女性たち。
同時期の地方の町と比較しても経済的には豊かな島だったと思います。女性の装いにもそれが感じられます。

蛎瀬海岸下から 



蛎瀬海岸下から見上げた立坑の櫓です。
丸い大きなコンクリート製の物は通風口でしょうか。
堤防は端島を彷佛させるでしょう。
堤防下に幅1メートル程の一段があり、テトラポッドの先の方まで歩いて行けました。サザエやカニを採ったり、釣りをしていました。端島方面からくる海流の流れが早く、泳ぐ時は注意していました。
堤防の上から幼児が転落する悲しい事故もありました。
1975年8月撮影

旧小学校のプール 



海水浴場に隣接して残っている旧小学校のプール。
小学4、5年生の頃、プール建設の手伝いをしました。体育の時間を利用して、プールの基礎になる所に石運びをしました。今なら児童にそんなことはさせないでしょうが、良い思いでになっています。海水のプールで、冬になると誰かが魚を泳がせていたこともありました。夏前のプール清掃も6年生の係でした。
なぜ、プールは残しているんでしょうか。体育の授業でもあるんでしょうかね。

蛎瀬進発所内 



蛎瀬進発所内の電源などの備品のロッカー。

お昼休み 



お昼休みに卓球の様なテニスの様なものに興じる事務や外勤の従業員さん達。堤防の向こうは蛎瀬の海で、左側手前が進発所にあたります。
この辺りも以前は従業員の住宅や機械関係の工場で建て込んでいましたが、撮影した1975年8月には、住宅は撤去され、高層アパートの方へ移動されていました。新しい建物も見かけなく、使っていない建物もあったように思います。下降線をたどりつつあったのでしょう。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。