古い堤防 

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旧小学校近く、百間崎の堤防跡。現在は埋め立てれて、遊歩道や公園になっていますが、この堤防の右側は海でした。小石で覆われていて、堤防の切れている所が階段や坂で海に下りて行けました。1970年代以前は精霊流しが行われていた場所の一つです。
下の写真の左側に一連の堤防が見えています。

コメント

二子にある内陸の堤防跡は、拙blogでもいずれアップさせて頂こうと思っていましたが、元役場付近の浜は70年代に既に埋め立てられていたのですね。
高島へいくと必ずここは通りますが、いつも面白い光景だなと思っていました。
 

書き方が悪かったです。
埋め立ては75年当時はしてなかったので、多分、80年代過ぎ、閉山してからかも知れません。
精霊流しは対岸の三和町から残骸が流れてくるなどの環境問題で海に流せなくなって来ていました。
その後はガスの浜で燃やしていました。

精霊流しがなくなったのは埋め立てられたからではなく、そういう理由だったんですね。
となると二子にある旧堤防のほうが遙かに古く埋め立てられたということになるのでしょうか。

少し訂正。
>対岸の三和町から残骸が流れてくるなどの

対岸の三和町から「残骸が流れてくる」と苦情などの

二子の堤防がどれを指すのかわからないので、なんとも言えませんが、砿業所内の敷地内なら、二子の方が古いと思います。島が繋げられて拡張されて来たのではないでしょうか。

閉山時の写真を見ると、古い堤防のままで、百間地区の埋め立ては閉山後でした。

随分おそくなりましたが、
二子の堤防跡をアップしましたので、
TBさせて頂きました。

最近アップされている、昔と今のシリーズ、興味深く拝見させて頂いてます。
ところで、昔の白黒写真が全て1974年2月なのは、なにか理由があるのですか?
 

堤防跡の画像、ありがとうございます。
白黒写真は19752年2月に帰省した時の撮ったものです。
翌1975年8月撮影のモノもアップしているので、区別しています。

75年8月も

そうですか、帰省された時のものだったのですか。
75年8月もありましたね。
特に蛎瀬街道の3人の夏服女性の写真は、夏らしい気持ちのいい写真ですね。
あと74~5のカラーの年末年始もありましたね。
これからも昔の写真/現在の写真、ともに楽しみにしております。

ありがとうございます。
どの写真も撮った当時はピンとこなくて、ボツにしていましたが、時間が手助けしてくれたようです。

埋め立てされたのは閉山前ですよ。正確に何年かは定かではありませんが働き出した時(昭和56年)には埋め立てられていました。この堤防は切られたのではなく、ここで切れてました。
正面に見える建物は千屋(ちや)商店だったと思います。またこの並びに
本屋さんや駄菓子屋さん「ミツタケ」と言う衣料品店やはじめ寿司、飯田電気屋さんがあり橋口自転車店まで商店が並んでました。すぐ後ろが海で台風等の際には波が上がってきてたので
この部分だけ堤防を高くしたんでしょうね。 この切れている部分から光町
方面は昔ながらの堤防(石と「あまかわ」)の低い堤防が続いていました。

二子の堤防は随分と低くなったような気がします。自分が働いていた頃は
梯子がないと登れませんでした。
ここから発電所方面に100m程行ったところに機械工場があったのですが
堤防から海まで100m以上あっても
台風がくると大波が堤防を越えてきていました。排水溝は埋まり、水中ポンプを準備していても停電で動かず
島なのに機械工場が浸水したことが
あります。

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  • [2006/02/09 06:41]
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  • 廃墟徒然草 -Sweet Melancholly- |
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