島の別れ 



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転勤などで島を離れる人を見送る光景。最後まで別れを惜しんでいました。
最後の写真の右上は「高島倶楽部」の建物でしょうかね?

コメント

誰が頼んだわけでもなく、蛍の光を流してくれていましたね。

閉山直後は毎回こういう光景が見られたんでしょう。
送るだけで送られたことがない人たちが、今の高島を支えています。

その通りだと思います。

この写真そのまま、30数年前に見送られました
(T_T)
転校先の家で、夜汽車の音が聞こえる度に押入れに入って一人泣いていました。
高島の友達や住んでたアパートに帰りたくて・・・
 蛍の光は、たぶんお金を払ったら流す様になってた??たぶん何十円とかの?
 友達と繋がっている紙テープが、速いスピードで引き裂かれた感触が今でも残っています。
出来る事なら、生まれ育ったこの島で暮らしたいと、誰もが願っていたんでしょうね・・・



自分も閉山後に見送られた一人です。
子供の時に見たかやき丸と黒浜丸が
懐かしいです。野母半島から野菜を
運んでくるおばちゃん達の船だったと
思います。
最後の写真は高島倶楽部で間違いないですよ。それと中央に頭でっかちの
木造屋根が見えますが、これは子供の
頃に外勤詰所と呼ばれてました。
働くようになってから聞いた話ですが
頭でっかちの2階部分は戦争中に
開発された昭和新坑の斜坑巻き座
だったそうです。(信憑性は?です)
発電所が空爆され停電でそのまま
水没廃坑されたみたいです。

浩司さんはじめまして。
高島出身のくせして「端島支所下っ端用務員」と名乗っているウサンクサイ奴です(笑)
はい、確かに頭デッカチの木造は外勤詰所ですね。下部分のコンクリ造のとこが外勤詰所、上の出っ張った頭デッカチの木造が乗っかってたので「仮分数」って呼んでたそうです。父が言ってました。父はs7年生まれ。自分はs46年生まれです。
閉山迄高島に居ました。
父も確かに浩司さんのおっしゃる通り2階木造部分は高島新坑(s20年廃坑)の斜坑巻き座と言ってます。
その近くに山都荘って旅館がありましたね!

外勤詰所、覚えています。確かに頭でっかちの変な建物でした。斜坑巻き座とは知りませんでした。

>端島支所下っぱ用務員さん
どうもはじめまして私はs37年生まれですので9歳年上ですね。ですが父親は同じs7年生まれですよ。自分の家族の場合はs36年に三菱の他の炭鉱から移動して来ました。用務員さんのお父さんと言うのは元々から高島の人なのでしょうか?詳しいですね。
自分も興味がありましたが、とうとう
1度も中を覗いた事ないです。

浩司さん、コメント有り難うございます。
はい、父は根っからの高島生まれの高島人です。元々本町に居ましてs35年に新築の緑ヶ丘33号に入居しまして閉山迄居ました。
実は1度外勤詰所2階部分木造に入った事があります。
小学5年(s57)頃でしょうか、たまたま近くを遊んでた時、会社関係のおじちゃんが山都荘(旅館)のあたりから階段がこの木造のとこに伸びてて入り口がありそのおじちゃんが鍵開けて入ってました。自分達友人2人とおじちゃんに話して中見てもいーですかと聞いたらあっさりOK、中に入りました。事務室みたいな小部屋が2つくらいありあとはすごく広い畳敷きの広間がありました。一時期、図書館として使われてたと父が話してましたが確かな事は・・・??

私は、閉山前に島を離れたんですが
(昭和48年頃)この写真を見ると
涙が...生まれた所は違うんですが
育った所です、私の故郷ですね

今は、愛知県...高島が恋しいですね...

私のホームページアドです

http://www.geocities.jp/a4ftyvbnki/



>toshioさん

現在はすっかり変わっていますけど、自分が育った島を忘れることは出来ませんね。遠くに居るなら、なおさらでしょう。

ホームページ、また拝見に伺います。

この光景は胸が熱くなります。鉱業所の合理化で島を去る同級生を何人も見送ったこと。高校卒業後は私自身が進学で島を離れるまでの間、関西や名古屋に就職する同級生を見送りに毎日のように桟橋に出かけましたね。蛍の光を聞くとその時々の光景がよみがえります。

>やすさん

島に住んだ人なら、誰もが経験した光景でしょう。偶然、乗り合わせたんで、撮りました。

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